2017年12月の記事一覧

カトリック久留米教会誌 第6号

静けき真夜中

主任司祭 ペトロ 宮崎 保司

 カトリックのクリスマス・キャロルに「静けき真夜中、貧しいうまや、神のひとり子は~♪」とあるが、今年も世界各地でテロ事件、地震、自然災害…と枚挙に遑が無いほど悲しい出来事があった。そのせいか、「静けき真夜中.」というフレーズが妙に心に掛かり、聖堂で夜遅く一人静かに物思いにふけってみた。

 人も車も忙しく行き交う昼間の喧騒さのなかでは思考回路が充分に働かないが、静寂な夜はゆっくりと思考素子を回転させることができる。森羅万象の出来事について、人智の限界(不慮の出来事における生と死)について熟慮できる。

 ところで、ルカ福音書によれば、人となってお生まれになった救い主キリストは、静けき真夜中、人知れず、町外れの家畜小屋の中で産声を上げたと記されている。何故に、糞尿がこびりつき、異臭が鼻をつくような家畜小屋を選ばれたのか?また、何故に、生まれてまもなくエジプトへ逃れ、難民生活を余儀なくされたのか?さらに時が満ち、救い主(メシア)としての使命・福音宣教を始めて3 年目に、大祭司や律法学者など当時のユダヤ人指導者たちの手によって、残酷なる仕打ちのうちに十字架に磔にされて亡くなったのか。

 今年起こったさまざまの悲しみと不幸な惨事とを重ね合わせながら私なりに黙想してみた。結局、艱難辛苦や死は復活の前提であり、栄光の喜びに入るための最良のプロセスであると思うようになった。それをローマ書8章から読み取ることができる。「わたしたちすべてのために、その御子さえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょう。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか。迫害か。餓えか。裸か。危険か。剣か。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するもの、現在のものも、未来のものも、力あるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(32 節.39 節)

 静寂のなかで何度も繰り返し繰り返しこの箇所を読んで、妥協を全く許さない神の徹底した愛は、人智では知り得ない壮大な計画(主の誕生の瞬間から十字架の死と栄光ある復活)のなかで、救済の業を実現されたことを改めて覚えた。そして、愛である神は人間が受けるすべての艱難辛苦をいつくしみとあわれみを持って癒しと希望、勇気と力へと変容される方であり、命を愛される神であることも再認識した次第である。

 歳末の雑踏を避けて静寂のなかで心落ち着かせて聴くクリスマス・キャロルこそ、キリストの誕生とそのご生涯の意味をより理解させてくれるものであろうと思う。♪♪天に栄光、地には平和がありますように。♪♪


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